【メディア・講演経験】
2020/12/13 シナジースペースにてセミナーをさせていただきました!
→セミナー名『動画編集&YouTube攻略セミナー』
2020/12/20 北陸中日新聞に掲載していただきました!
→記事名『この街で 保育所 動画で魅力』
2021/6/22 北日本新聞に掲載していただきました!
→記事名『かなざわ便り ネットへの発信支援』
これまでの人生
動画戦略家もってぃー
1990年8月19日生まれ。出身は富山県。大学生以降、石川県を中心に活動。
ひとりっ子の恩恵を受けまくったスネ夫時代
小さい頃の記憶はほとんどないんですが、ひとりっ子で、おまけに親戚も多かったので、毎年正月になるとお年玉を大量にもらっていました。
あとなぜかお年玉だけなじゃなくて、新作のゲーム機を買ってくれるおじさんもいて、字面だけ見たらドラえもんのスネ夫ばりの恩恵を受けていた幼少期。
そのせいか、そのおかげか、小学3年生くらいにはゲーム大好き人間になっていて、誕生日にもこどもの日にものクリスマスにも「何が欲しい?」って聞かれたら新しいゲームソフトをオーダーしていました。
この頃から悪知恵がはたらく脳をしていて、「トップラーン(昔の進研ゼミみたいなやつ)を1ヶ月分終わらせたら新しいゲームを買ってもらえる」という契約を親と交わし、毎月末になるとひたすら答えを写しまくるという裏ワザを多用。
そのうち、わざと答えを間違えて、消しゴムで消して、それっぽい答えを書いて赤ペンで修正するっていう高校生も真っ青な高等テクも習得。
暮らしはスネ夫でしたが、やってることはのび太みたいな日々を過ごした結果、1年間で20本くらいの新作ゲームが増え続けていました。
今でもゲーム好きなのは、多分この頃の人格形成のため。
でもなぜか小学校のテストは100点連発、というか100点以外取った覚えがありません。
このまま神童ルート一直線だと思っていました。この頃は。
暗黒の中学時代
漫画で「木刀持った先輩がいて、ナメてたら半殺しにされる。それが中学校」とバッチリ予習して、割とビクビクしながら中学生になったんですが、予習内容とはまったく関係のないところで僕の神童ルートは瓦礫のように崩れていきます。
それが部活でした。
中学では部活参加が強制で、なんとなくカッコ良さそうという理由でバスケ部に入部し、ゲボ吐くレベルの練習のキツさに3ヵ月も耐えられず、速攻で幽霊部員に進化。
そのうち部活の顧問に「部活来い」ってめっちゃ怒られましたが、それでも部活が嫌すぎたので、「部活を休むために学校を休む」というスキルを使う不登校中学生に上級進化を果たします。
中学生になってからも進研ゼミ的なやつは継続していましたが、僕がやっていたのは右から左へと答えを写して、たまに消しゴムで消すみたいなベルトコンベア式の作業です。
ゲームソフトと教養番組『さわやか三組』を見る頻度ばかりが増える一方で、ナイアガラのごとく急落していく成績。
あと友達もなんだか減りました。
でもいいもん!
ゲームさえあれば!
とか思ってたんですけど、このままだと闇堕ちすると思ったんで、中学3年生になった辺りからなんとなく高校デビューを意識し始めます。
高校を考え出す頃には、「そこら辺の誰でも受かるような私立高校に入れたらいいや」くらいで願書を出して、とりあえず滑り止めレベルの高校に無事入学。
「この高校ならみんな僕と同じくらいの学力だろうし、高校からやり直すつもりで高校デビューしよう!」と思っていたら、適当に選んで受験した中堅公立高校に歴史的な定員割れで合格。
親も先生も、「私立より公立の方がいいよ」と猛プッシュしてきたこともあって、そのまま中堅公立高校に入学することになりました。
ヤバい、学力マジ足りない。
このままじゃ高校デビューとか言ってられない。
と焦りに焦って、高校に入学する前の春休みに「勉強方法の勉強」をやり込みました。
この選択をしたこと自体、とんでもない奇跡だったわけです。
絵に描いたような高校デビューを果たす
結果的に、高校デビューは歴史的な大成功を収めます。
学年最低レベルだった学力も、3年生になる頃には総合で学年10位台。
数学と物理に関しては学年1位を何度か叩き出しました。
人間関係も神がかっていました。
1年生の頃は「魔の13ホーム」と呼ばれるクラスに入っていて、そこには4つの派閥があって、互いが互いを忌み嫌っていたんですけど、なぜか僕はその4つの派閥すべてに所属するという絶妙な立ち回りを発揮。
それがあったからか高校の先生からも結構な信頼を獲得していて、3年生の前期には生徒会長になっていました。
放課後には生徒会室に生徒会メンバーがのそのそと集って、お茶を飲みながら漫画『ひぐらしのなく頃に』(生徒会室の掃除ロッカーに隠れて全巻持ち込んだ)を読んだり、メンバー同士でだべってたのは本当に良い思い出です。
多分、あれが青春っていうんだろうなぁ。
そして学力と人望と生徒会長っていう実績を引っさげて、その高校としては非常に優秀な大学『金沢大学』に推薦合格を果たしました。
ちなみにその高校から金沢大学への推薦合格は、過去10年間くらい一度もなかったらしく、合格した後は英雄みたいな扱いをしてもらったし、「大学生になったらここで講演してもらうわ!」と言ってもらいました。
卒業して10年強。
いまだ母校講演の依頼の声はかかっていません。
突如開花した塾講師スキル
大学に入学してからすぐにファミレスでバイトを始めるも、店長に罵倒される日々であっという間に病み体質になりました。
「明日、バイト先に隕石落ちないかなぁ」とか思いながらほぼ毎日バイトに行き、そのせいで大学の勉強が疎かになり、1年前期ではやくも単位を落とすという悲劇。
当時の僕はめちゃくちゃ臆病者だったので、「辞めます」の一言が言えずにズルズルズルと引きずり、1年生の11月になってようやくファミレスバイトを卒業しました。
その後、将来的に教員になろうと思っていたので家庭教師の派遣登録をして、金沢市から車で1時間半くらいかかる七尾市というところで、4人の中学生の家庭教師を担当。
そして「家庭教師やってるんだったら、塾講師もいけるでしょ」と友達に誘われて、大手個別指導塾の塾講師バイトを掛け持ちでスタートしました。
塾講師は僕にめちゃくちゃ合っていました。バイトなのにべらぼうに楽しくて、どれだけ働いても嫌だと思ったことはありません。
最終的にはシフトが入っていない日でも教室に行って、無給で自習生の対応をするという状況になっていました。
自慢じゃないですが、担当した生徒の8割くらいは「あの先生の教え方は神」と言い続けてくれました。誇張じゃなく、マジで僕の教え方は神がかっていると思います。
大学4年生のGWあたりに、教師免許を取るために必要な教育実習に行ってきたはいいものの、塾とは全然異なる学校現場の窮屈さに絶望。
実習終了後に教員になることを即座に辞めて、大学卒業後すぐに塾を建てることを決意。
ところが大学4年の11月頃に、「そういや経営のこととか何も分からないや」と思って、塾経営のことを学ぶためにバイト先の塾にそのまま就職。
大学を卒業すると同時に個別指導塾の教室長となり、売り上げや給与といったリアルな数字と向き合いながら、塾経営のあれやこれやを2年間ほど学んでから独立しました。
ネット集客との出会い
独立してからは、まず個人契約の家庭教師を始めました。
集客はそこまで苦労しておらず、独立する半年ほど前からホームページ運用の勉強を始めていて、そこから数件の依頼があったのです。
家庭教師と並行して、ブログを書いてGoogleの広告を貼って稼ぐ、いわゆる『アドセンスブログ』の運用にも挑戦しました。
狙ったキーワードで検索上位を狙うSEOをゴリゴリ勉強し、2ヶ月間、3000文字くらいの記事を毎日3記事投稿という鬼のようなペースでブログを更新。
結果、3ヶ月目で月間PV数が100万を超え、広告収入だけで月収17万円を達成しました。
ここだけの話、「USJ」と「東京オリンピック」という恐ろしく強いビッグキーワードで、検索1位争いをしていたこともあります。※「USJ」では最高2位、「東京オリンピック」では最高1位と別記事で3位を達成しています。
さらに「ブログ×Goggle広告で稼ぐやり方」を教えるメルマガ運用も開始し、登録者数700人くらいのときに商材を販売したところ、1日で60万円強の売り上げを達成。
これらの経験があったことで、「これからの時代はネット集客を極めた人が勝つ」と確信し、以降のビジネス戦略の方向性を決定づけていったのです。
勉強を教えない学習塾
独立して半年くらい経ってから縁があって、年の近い3人の仲間と、大学受験専門の学習塾を金沢で立ち上げることになりました。
しかもただの学習塾じゃなくて、教えるのは勉強方法。そして勉強方法の実践のサポートを中心に行う『勉強を教えない学習塾』です。
オンボロのテナントを借りて、不要になった学習机やら椅子やらホワイトボードやらをSNSで譲ってもらい、教室内はDIYで改装。教材もそれぞれが学生時代に使っていたお古を持参して、手作りした本棚に並べていました。
恐ろしく安い初期費用で、2015年11月11日(1が一番多い日)に『勉強を教えない学習塾』がオープン。
▲オープン当初の教室
集客の中心はもちろんネットで、ブログだけではなくインスタグラムもフル活用。
ブログは順調に伸びていき、「金沢 学習塾」というキーワードで検索1ページ目に表示。インスタグラムは運用3ヵ月目でフォロワー1万人を達成しました。
そして学習塾を開いて3年目には生徒数の定員がオーバーし、入塾の問い合わせがあっても断らなければならないという嬉しい悲鳴をあげることに。
▲3年目の教室の様子
その流れでYouTubeにも挑戦してみたんですが、この頃はYouTubeの攻略法がまったく見えず。
適当にインスタグラムからYouTubeに流入させてみたところ、登録者数700人くらいまでは伸びたものの、それ以降の伸びは亀のように遅くなり、塾を閉じる最後まで登録者数1000人を超えることはありませんでした。※塾を閉校してからもそのチャンネルはじわじわと伸びていて、いつの間にか登録者数1000人は超えていました。
そして2020年3月31日。
運営メンバー全員が、今の大学受験のシステムに違和感を覚えたことが起点となり
- 「今のまま大学受験対策をやっていても本質的に良い教育はできない」
- 「かといって今から方針を変えながら運営しても中途半端なサービスを提供することになる」
- 「だったら思い切って今の塾は閉じて、それぞれでやりたいことを極める時間を作ってみてはどうか」
- 「そしてまたこのメンバーで教育がやりたいと思ったときが来たら、そのときにまったく新しい形の塾を作ればいい」
という形で、『勉強を教えない学習塾』は閉校することとなりました。
YouTubeをガチる
そして実は塾を閉校する半年ほど前、趣味でゲーム実況のYouTubeチャンネルを開設していました。といっても最初は何も考えず、やりたいゲームを何となくやって、ダラダラと喋っている様子を撮影して、それっぽく編集した動画を投稿していただけ。
当然チャンネル登録者数も思ったより伸びず、1ヶ月経った頃の登録者数は43人。
このままじゃあかん!収益化最低ラインの1000人まであと20ヵ月くらいかかるじゃん!そんなにやってられっか!
と思い、YouTube運用のやり方を徹底的に見直して、分析から再スタートしたところ変化はまもなく訪れました。
チャンネル開設から2ヶ月が経過した頃、チャンネル登録者数が1日で160人以上増加したのです。
そしてチャンネル運営3ヶ月目には、1日で400人以上登録者が増えることもあり、3ヶ月経過した頃にはチャンネル登録者数が5700人を超えていました。
それと同時期に収益化がスタートし、収益化1ヶ月目の収益は約70000円。2ヶ月目は22万円。3ヶ月目には78万円という大台を達成していました。
その頃には登録者数は3万人を超えており、その翌月には4万人を達成。
数字だけ見れば「半年でチャンネル登録者数4万人」という驚異的な記録を叩き出していたのです。
このチャンネル運営を通して
【YouTubeは運営方針さえ間違えなければ、誰でも万人チャンネルまで伸ばせる】
ということを確信しました。
そしてこのチャンネルは2019年8月12日〜2020年4月20日までの約8ヶ月間更新を続け、最終的な登録者数は43000人、累計収益額は約260万円という記録を残して、チャンネル運営を休止しました。
休止した理由は
- 僕に息子が生まれた
- 別の分野に挑戦したくなった
の2つが主なんですが、詳しく話すと長くなるので割愛。
一言でいうなら「人と関わる仕事をしたくなった」のです。
動画の人として認知されるように
それから色んな経営者の方とお話する機会があり、自己紹介から僕のYouTubeチャンネルが話題に上がることも増えていきました。
やはり経営者の方々はそういう話題には敏感で、
- 「どうやって4万人まで登録者数を増やしたのか」
- 「0からYouTubeを伸ばすにはどうしたらいいか」
- 「うちの会社でYouTubeするとしたらどんな動画がいいか」
などといった質問・相談が相次ぐように。
さらに「セミナーを開いてほしい」という嬉しいお声掛けをいただき、YouTubeセミナーを開催するまでに。
そこからYouTubeを使ったマーケティングコンサルとして企業とお仕事させてもらったり、YouTubeを活用した採用動画を作成したり、個人事業主の方から「1からチャンネルをプロデュースしてほしい」とチャンネルプロデュースのお話までいただくようになりました。
「他の人のYouTube運用を成功させなければならない」というプレッシャーに押しつぶされないよう、それからさらにYouTubeの研究・勉強を重ねました。
1万円を超える情報商材を買い漁るようになったのも、その頃です。
そして2020年12月16日からプロデュース&運営開始したYouTubeチャンネルは、ちょうど5ヶ月経った頃にチャンネル登録者数4万人を達成。
今では、僕の記録を余裕で追い抜く勢いで成長しています。
ちなみにプロデュースチャンネルが登録者数1万人を達成したのは、プロデュース開始から約4ヶ月後の2021年4月7日。
投稿ペースは週2本をできる限り維持し、32本という投稿本数で万人チャンネルへの仲間入りを果たしました。
現在
そして現在。本っっっ当にありがたいことに、僕に動画の相談をするために、わざわざ金沢まで足を運んでくださる方が少しずつ増えてきました。
しかも「金沢で活躍している動画クリエイター」ということで、新聞にも何度か取り上げられていただくという奇跡まで。
暗黒の中学時代を生きていた14歳の僕が聞いたら、「俺がそんな大人になってんの!?じゃあやっぱり今のままで勉強しなくていいじゃん!ひゃっほい!進研ゼミ写すのも面倒くさくなってきた!ゲームしよ」とさらなるダークサイドに堕ちていきそうなので、14歳の僕と対面しても知らんぷりすることにしています。
そんなわけで現在は経営者・事業主の
- YouTubeサポート・プロデュース
- 動画制作・編集
- ビジネス×動画運用
といった動画戦略を考える『動画戦略家』として活動しています。